自己責任おじさんはロゴストロンを使うのに向いているのか?

自己責任おじさんはロゴストロンを使うのに向いているのか?

現状に不満を持つ人に、それは努力不足が原因だと突き放す自己責任論者を「自己責任おじさん」と言うらしいです。

そんな最近話題の自己責任おじさんはロゴストロンを使うのに向いているのでしょうか?

自己責任おじさんはロゴストロンを使うのに向いている

結論を先に言うと、自己責任おじさんはロゴストロンを使うのに向いています。

言霊で現実を創造したいのであれば、良いことも悪いことも全て自分のせいと考えたほうがうまくいくからです。ロゴストロンの効果は使用者の意識の変化であり、直接、外界に作用しているのではないのです。

「それは私の責任じゃないだろう」と思えるようなことでも、「それも自分のせいだ」と一旦引き受けたほうが変えられるということです。逆に、出来ない理由を一生懸命探し出しどんなに完璧に説明しても、出来ない現実は変わりません。それどころか更に強化されます。

自己責任おじさんが嫌われるのは他者に自分の価値観を押し付けて説教を始めるからなので、それを自分に向けているだけなら大して問題にはならないでしょう。

意識が全てを創造している

言霊で現実が創造できるのは、意識が全てを創造しているからです。そうでなければ言霊が現実化する道理がなくなります。

貧乏などの望まない現実があるとき、自己責任おじさんは次のように考えます。このマインドは「意識が全てを創造している」ことを掴むのに意外と役立ちます。

  • 私が貧乏なのは私のせいだ
  • 私が仕事が出来ないのは私のせいだ
  • 台風の影響で被害が出たのは私のせいだ

病気などの望まない現実は、病気になることを通して学ぶべきことがあるから自分で病気になっているケースがあります。その場合は、病気になる前にその学びを完了させてしまえば、わざわざ病気になる必要がなくなります。

内側か外側か?

何かの問題を解決する際、自分の内側を変えようとする人と、外側を変えようとする人がいます。自責と他責の違いでもあります。自己責任おじさんは、極度に自責を強調する人とも言えるでしょう。

例えば、英語が話せないという問題では、自責の人は「私が英語が話せないのは私のせいだ」と考え、他責の人は「私が英語が話せないのは日本の学校教育が悪いからだ」と考えます。日本の英語教育が良くないのは正論ですが、それが改革されても自分が英語を話せないことに変わりはなく、ロゴスロトンを使いたいなら自分の内側を変えるほうがうまくいきます。

また、満員電車が不快という問題であれば、自責の人は、

「満員電車が不快なのは私のせいだ」

と考え、

満員電車が不快なのは、乗客が多過ぎるし、運行本数が少なすぎるし、時差出勤しなさ過ぎだし、有休が取れないし、車両が揺れるし、通勤に時間がかかるし、東京に一極集中してるし、男性が痴漢するかもしれないし、女性の長い髪が顔にかかるし、ベビーカーを乗せる親がいるし、子供が泣いてるし、隣のイヤホンが音漏れしてるし、電話してる人がいるし、食事してる人がいるし、化粧している人がいるし、女性専用車両に乗って来る男性がいるし、女性専用車両に乗らない女性がいるし、吊り革がべとついているし、おっさんの耳毛がキモいからだ。

と考えます。

この場合、他責の人がロゴストロンを使うと「私はベビーカーで泣いてる子供を最適化した」のような訳のわからない構文を書くことになります。この例ではわざと誇張して言っていますが、中途半場に学んだ人ほど何故か自分の外側を変えて問題を解決したがります。確かにそうなのかも知れませんが、毎回こんなことばかり考えてたら疲れませんか?

「何で満員電車が不快なのが俺のせいなんだよ?」と言われそうなのでひとつの解を示しますが、そもそも不快という状態は鎮魂が解けている状態なので鎮魂を維持してない自分が悪いからです。

鎮魂により第一階層の二項対立である快・不快を統合すると「憶」の境地になります。これで問題は解決します。

内も外もない

一応これで話は終わりなのですが、最後に補足します。

話の都合上、内と外を分けて説明していますが、最後は「内も外もない」ということが腑に落ちてきます。

「どこまでが自分か?」については下記の記事を併せてご覧ください。

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